むかしむかし、20世紀半ばのこと…
東京都練馬区東部にある、西武池袋線の江古田(えこだ)駅付近は、戦前から、3つの専門学校がある学生街でした。
その3つの専門学校が、1949年の学制改革によって、大学になりました。
北口の羽沢にある武蔵野音楽大学は、開学当時、竹林を通して江古田駅から校舎が見えたといいます。
南口、武蔵大学は、駅の南口の豊玉上に開学。
さらに、戦時中も工学教育として、旭丘で写真、映画、音響を教えていた日本大学藝術学部も、1946年の校舎全焼を乗り越え、1949年に現在地で写真・映画・美術・音楽・文芸学科を有する学部として開学し、のちに放送・演劇・デザイン学科を開設。
大学教育の中で、これほどまでにアートの集まった学部はきわめて異色の存在であり、ICカードなどなかった時代、入試の日には朝、江古田から受験生のみなさんは北口より少し広い南口に誘導されていたように記憶しています。
35年くらい前、髪をピンクに染めぬいた男子学生さんがいましたが、それを見ても誰も驚かないで受け入れるのが江古田という街でした。
武蔵大学は、少人数制の教育を続け、「ゼミの武蔵」として現在も江古田キャンパス一本の指導を堅持しています。
しかし、日本大学藝術学部と武蔵野音楽大学は、教育環境の改善をめざし、キャンパスを2つに割ることになりました。音楽や美術や演劇を学ぶには、大きなホールやスタジオ、アトリエなど、面積を必要とするからです。
日本大学藝術学部は、所沢に新キャンパスを作り、1~2年は所沢、3~4年は江古田、となりました。その過程で、順ぐりに学科ごとに移動をして、所沢の新キャンパスと江古田キャンパス、両方を使っているようでした。武蔵野音楽大学も、入間に新キャンパスを作り、1~2年は入間、3~4年は江古田、と同じように学年別になりました。
音大の学生さんの「民族大移動」、そして残された街は変わった
武蔵野音楽大学はいわば老舗の音楽大学です。
まんが『のだめカンタービレ』の最初のページを見て、学祭で見慣れていたので「これって武蔵野音大じゃない?」と1ページ目からわかってしまうほど、江古田キャンパスをモデルにしていることがありありとわかる描写で、思わず笑ってしまうほどでした。
その『のだめ』に出てきた由緒ある校舎をリニューアルする、しかも、ほとんどの学生を入間キャンパスに受け入れるというので、地元の私たちは非常に驚きました。
たしかに、設備的には狭くて古い状態でしたが、そのリニューアル期間、江古田の「音大生」たちが、日大の音楽学科・大学院の学生さん200人ほどを除いて、すっかりいなくなってしまうというのです。
実際、街の雰囲気は変わりました。
大学3~4年の音大生、と言えば、実は女子も食べ盛りだったりします。特に、声楽専攻の方は、「都市伝説」かもしれませんが、肉好きと言われています。焼き肉店や、お好み焼きのお店がいくつも閉店しました。いわゆる飲み屋さんも入れ替わりが激しく、学生たちの行きつけの場所がなくなったからか、「この人、家飲みなのかな」と学生さんとおぼしき人が買い物をするスーパーのレジで思ったりもしました。武蔵大学の学生さんに加え、日大の学生さんもすぐに踏切を渡れる南口のほうに、何か勢いが移ったように感じられました。
南口にタリーズが開店し、駅前のマクドナルドも建て替えられておしゃれな感じになりました。一方、北口では、老朽化した市場が解体され、跡地が民家になったりしています。栄町を貫く「ゆうゆうロード」も、少しずつお店が閉じていきました。
まぶしい校舎、リニューアルついに完了
しかし、待ちこがれていた2017年4月、武蔵野音楽大学が江古田に帰ってきました。高い建物の上から見ると、大きなガラス窓の光る校舎が見下ろせます。音楽に強い愛情と高い志をもっている3~4年生の復活は、ガラス窓を照らすまぶしい光のように感じられます。
学生としての充実期を迎える学生のみなさんの江古田への「帰還」。
グルメシティはBig-Aに代わってしまったけれど、ものによってはびっくりするほどの安値で学生さんを待っています。さかい整形外科は、ピアニストの手の不具合を専門にしていらっしゃる先生のクリニックです。これで先生も本領発揮です。きっと悩んでいるピアノ専攻の学生さんを救ってくださるでしょう。
秋の学祭が今から楽しみです。今までも、3大学が一緒に学祭をPRしていましたが、今年からは、ほんとうに同じ街での学祭が繰り広げられるのですから。
お知らせ
【卒業生の皆様へ】4月23日江古田新キャンパス「卒業生を対象とした公開日」について
日時:平成29年4月23日(日) 午前10時から午後3時